<沖縄>天気が悪い日にオススメしたい歴史散歩!ビーチリゾート【石垣島】の知られざる歴史

🇯🇵沖縄/石垣島 2020年1月19日~20日

1月の石垣島は天気が悪く、ビーチ遊びには向かない季節です。

それでも夏のように暑くなく、本土から行くとかなり暖かく感じるので、ダウンを脱いで街歩きを楽しめる季節でもあります。

通常のガイドブックにはビーチリゾートや飲食店の情報しか載っていないので、今回は山川出版社の「沖縄県の歴史散歩」という本を手に、普段行くことのない石垣島の文化施設をめぐり、島の歴史に触れて来ました。

石垣島歴史散歩① 八重山士族の屋敷【宮良殿内(みやらどぅんち)】

石垣市の中心街に、石垣に囲まれた赤瓦のひなびた建物があります。

国の重要文化財である「宮良殿内(みやらどぅんち)」。

八重山士族の最高位である「頭職」が住んだ屋敷です。

門の奥に一枚の壁があり、その奥に母屋があります。

この作りについて、作家の司馬遼太郎さんはこんな風に書いています。

門を入ると、「目隠しのため」と説明されている石塀がある。この特殊な、用途不明な、単純構造物のことを沖縄ではヒンプンというのだそうだが、薩摩の武家屋敷にもからなずといっていいほどこの構造物が門内にある。薩摩は武張ったところだから、外敵が攻めてきた場合この構造物を盾にして防ぐのだという説明になっている。この説明はどうもうますぎて、つまりうますぎる説明はまゆつばであるということが多いという観念が私にあってにわかに信じがたいのだが、しかしこの単純構造物は実用的には一見無意味であるにせよ、造形的には構内全体を立体的にひきしめることに大きく役立っている。

司馬遼太郎著「街道をゆく 沖縄・先島への道」より

宮良殿内は、1819年首里の上級士族の屋敷を真似て建造されたとされています。

沖縄本島の武家屋敷は戦争ですべて破壊されてしまい、石垣島に残ったこの建物は当時の琉球の士族の暮らしを知るための文化遺産となっています。

とはいえ、ご覧のようにかなりくたびれた外観です。

見所は庭園。国の名勝です。

司馬遼太郎さんはこの庭園について、このように書いています。

背景に犬槇がびっしりならび、その前面が南画風の山水になっていて、奇岩がつらなりそびえ、その岩上に石の塔などが置かれて、中国の華南あたりの庭を連想させる。どうも、中国風であるらしい。田辺泰の「琉球建築」にも、本土の庭園とは技法を異にしている、とある。「むしろ支那江南地方に見られる形式に、本土庭園の趣味を取り入れたものと考えられる」という。骨格は華南方式で、味付けは本土風ということであろう。

司馬遼太郎著「街道をゆく 沖縄・先島への道」より

なかなか不思議なお庭です。

司馬さんは当時ご存命だった当主の宮良当智さんと話をされていて、宮良さんは司馬さんにこんな話をしています。

『 文政二年でしたよ、この家や庭ができたのは。庭は首里から庭師がやってきましてね、日本の山水の方式で作りました』

この庭は日本の山水の様式で作られたというのです。

縁側に座って改めて庭を眺めます。

司馬さんは、このように感想を述べています。

『 私の目には中国風が加味されているように見えたが、庭師のつもりでは本土の山水の方式だったらしい。ともかくもこの庭には、中国にも本土にもない独特の味わいがある。』

私もまさに同じような感想を持ちました。

宮良殿内
入館料: 大人200円 生徒150円
営業時間: 9:00~17:00
定休日: 毎週火曜日/年末年始
詳しくは・・・石垣島観光交流協会サイト

石垣島歴史散歩② 【石垣島地方気象台】に胸像が立つ岩崎卓爾の人生

石垣島でぜひ訪ねたいマニアックな場所がありました。

「石垣島地方気象台」。

観光スポットでもなんでもありませんが、ここは明治29(1896)年以来、日本の台風観測の最前線基地であり、台風列島日本の減災に大きな役割を果たしてきました。

そうした功績が評価されて、石垣島地方気象台は2017年、世界気象機関(WMO)によって日本で唯一の「百年観測所」として認定されました。

百年観測所(Centennial Observing Stations)とは、100年以上にわたり、ほぼ同じ場所で、統計の切断や長期の欠測もなく質の高い気象観測を続けている観測所のことで、世界で 116 箇所しかありません。

その歴史ある石垣島地方気象台の庭にひっそりと一つの胸像が立っています。

この人物は気象台の2代目所長として石垣島での観測に人生を捧げた岩崎卓爾です。

今回旅行するまで岩崎のことは全く知りませんでしたが、すごい人物です。

明治2年に仙台藩士の家に生まれた岩崎は30歳の時、2代目所長として石垣島にやってきました。岩崎は台風の最前線で気象観測を行っただけでなく、日本人にまったく知られていなかった八重山の自然や文化を研究し、柳田國男らの研究を助けて本土に発信した功労者なのです。

岩崎が赴任した当時の石垣島は、200年以上続く圧政に苦しんでいました。

児童文学作家の谷真介さんが書いた「台風の島に生きる〜石垣島の先覚者・岩崎卓爾の生涯」には次のように書かれています。

そのころの石垣島はいまだ未開のおもかげをのこし、時代の過渡期を迎えているときであった。貨幣の流通さえ十分に行き届いていなかった。島の人たちは、必要なものがあるとそれを物々交換で得ていた。

島の人たちの住み家は皆かやぶきで、家の四囲もカヤ、竹、ソテツの葉などを編んで囲むという粗末なものであった。食べるものも、主食はほとんどサツマイモかアワの粥で、普通の人が米を口にできるのは祝いの行事の時の祝い飯か、病気の時の粥くらいであった。

島の人たちのこのような貧しさは、島そのもののもつ貧しさや、生産物の貧困さから生まれたものではなかった。実は何百年も続いた非人道的・非人間的な古い制度の抑圧のためであった。

琉球国(沖縄)は、明治4(1871)年の全国廃藩置県で本土にあった各藩が天皇のもと、明治の新政府に統一された時、それまでの薩摩藩(鹿児島県)の属国から離れたが、沖縄県として誕生したのは明治12(1879)年になってからであった。

しかし、宮古諸島や八重山諸島などのいわゆる<先島諸島>には、まだ古いしきたりが制度としてそのまま残されていた。島の人たちは明治36(1903)年になるまで、二百数十年以上も「人頭税」という世界の歴史でも類を見ないと言われる過酷な悪法に苦しめられていたのであった。

「人頭税」というのは、その名のごとく人間の頭数、つまり農民のひとりひとりに税をかけるという、琉球王府の年貢制度のことである。

谷真介著「台風の島に生きる」より

琉球が八重山に人頭税をかけた背景には、薩摩による琉球侵攻がありました。宗主国である清と武力侵略を受けた薩摩の両方に貢物をするために、琉球王府は八重山の民に過酷な重税をかけたのです。

石垣市中心部には、「人頭税廃止百年記念の碑」が立っています。

人頭税が廃止されたのは明治36年。

ビーチリゾートとして人気の石垣島には、日本人が忘れてしまった悲惨な歴史があったのです。

石垣島歴史散歩③ 【石垣市立八重山博物館】で知るミルク神と洗骨

この「人頭税廃止百年記念の碑」が立っているのは、石垣島を中心とする八重山諸島の歴史・文化を知ることができる「八重山博物館」の前でした。

石垣市立八重山博物館は、訪れる人も少ない小さな博物館です。

八重山の島々で使われた品々を展示した素朴な博物館ですが、その中で目を引いたのは・・・

こちらの、飾り。

これは農作物の豊作に感謝する豊年祭「石垣島四ケ村のプーリィ」に使われる旗頭だそうです。

石垣島四ケ村とは石垣市中心部にある新川、石垣、大川、登野城の4つの字のことで、旧暦6月に2日にわたって行われます。

こちらは「弥勒(ミルク)の行列」。

弥勒菩薩は八重山では「ミルク神」と呼ばれ、白いユーモラスなお面とともに祭りの主役を務めます。

沖縄においては、もともと東方の海上にあって神々が住む「ニライカナイ」という土地があり、神々がそこから地上を訪れて五穀豊穣をもたらすという思想がありました。この思想にミロク信仰がとりいれられ、ミロクは年に一度、東方の海上から五穀の種を積みミルク世をのせた神船に乗ってやってきて豊穣をもたらす来訪神「ミルク」であるという信仰が成立したそうです。

こちらは、葬儀で使用する輿である「龕(ガンダラゴー)」。

石垣島では火葬が広まった昭和初期まで、死後3年、5年、7年の奇数年に死者の骨を洗う洗骨が行われていたそうです。

派手な展示品はないが、注意深く見ていくと興味深い石垣島の文化を知ることができます。

もう一つ、私の注意を引いたのは巨大地震。

石垣島など八重山・宮古諸島を襲った「明和大津波」です。

1771年4月24日に起きたこの地震の規模は諸説ありますが、巨大津波が島々を襲い、死者行方不明者1万1000人の被害を出しました。

津波の高さは85.4メートルもあったという説が言い伝えられていますが、最近の研究によると津波の高さは35〜36メートルだったとわかりました。

八重山の各地には大津波によって運ばれてきたと伝わる巨大な岩が残っていて、こうした津波石の年代測定などから明和以前にも巨大津波が島々を襲ったことが明らかになってきました。

私が知らない石垣島の歴史や文化を学べる八重山博物館。天気が悪い日に訪れるにはいいスポットだと思います。

「石垣市立八重山博物館」
入場料: 一般200円 子供100円
営業時間: 9:00~17:00
定休日: 月曜日(月曜が祝日にあたる場合は火曜日)、祝日、年末年始
八重山博物館ホームページ

石垣島歴史散歩④ 【桃林寺】で知る薩摩藩の琉球侵攻と明和の大津波

意外に面白かったスポットが、かつて石垣島唯一の寺院だった「桃林寺」でした。

サンゴ礁を切り出した石垣と赤い琉球瓦。

お寺といっても、本土のそれとはかなり趣が違います。

臨済宗妙心寺派のお寺で、1611年に検地のために派遣された薩摩役人の上申によって開かれました。

1611年といえば薩摩藩が琉球に武力侵攻した2年後。薩摩藩は琉球の領地であった石垣島にもやってきて年貢を取り立てるための検地を行ったのでしょう。

山門に収められた仁王像は、どこかユーモラス。

久手堅昌忠によって彫られた沖縄県に現存する最古の彫像で、県の重要文化財に指定されています。

明和の大津波で2体とも流されましたが、海岸に流れ着いたのを発見され再建されました。

境内にはヤシの木が生え、独特の南国ムードを醸し出しています。

「沖縄県の歴史散歩」には、次のような記述がありました。

近世八重山の宗門改めでは、すべての住民が禅宗とされた。しかし、実態として、禅宗はもとより日本や中国の仏教宗派が浸透することはなかった。現代では、花祭りや除夜・初詣などもあり、葬儀も行われている。

「沖縄県の歴史散歩」より

隣に立つ建造物は国の重要文化財に指定されている「権現堂」。

桃林寺との境界に育った樹木や植物は、熱帯の風情で、野生的で生命力に富み、強烈な存在感を放っていました。

お寺の歴史よりも八重山独特の風景を眺めるだけでも来る価値のあるお寺だと思います。

石垣島歴史散歩⑤ 中国人奴隷「苦力」の反乱を今に伝える【唐人墓】

もう一つ、「沖縄県の歴史散歩」で紹介されていたスポットへ・・・。

レンタカーで市街地から西に走った観音崎近くにある「唐人墓」です。

けばけばしい中国風の廟は、まだ真新しい印象を受けました。

唐人墓の由来を記した石板には、次のように書かれていました。

この唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。中国人労働者(苦力)は、16世紀以降世界各地に多数送り出されていた。1852年2月、厦門(アモイ)で集められた四百余人の苦力たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次、辮髪を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起。船長等7人を打殺した。船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁。380人が下船した。八重山の政庁蔵元は富崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した。しかし米英の兵船が3回にわたり来島。砲撃を加え、武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った。中国人等は山中に逃亡したか銃撃・逮捕され、あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった。琉球王府と蔵元は人道的に対応、中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し、島民も深く同情、密かに食糧などを運び給した。しかし、疫病による病死者も続出した。死者は一人ひとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた。この間、関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌1653年9月、琉球の護送船2隻で生存者172人を福州に送還して終結した。中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた。ここ富崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が、戦後まで数多く点在していた。1970年石垣市は異国の地にはてたこれら不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため唐人墓建立委員会を結成。1971年これを完成した。

唐人墓の前には海が広がり、沖には平べったい竹富島が見えました。

天気が良ければエメラルド色に輝く石垣島の海も、こうした悲惨な歴史を振り返る時には、この日のような曇り空が似合う気がしました。

石垣島歴史散歩⑥ 景勝地【川平湾】は過酷な年貢の積み出し港だった

石垣島北西部に位置する川平湾は、石垣島でも随一の景勝地です。

内陸に入り込んだ川平湾と、その南方に位置する沖縄県最高峰の於茂登岳。

私はこの近くに宿を取り、観光客がいなくなった夕方に浜に行ってみました。

曇り空の日の夕方。

それでも、川平湾は美しいと感じました。

しかし、この浜にも私が知らない歴史があったのです。

「沖縄県の歴史散歩」には、こんな記述があります。

かつて沖縄本島と石垣島を結ぶ航路は、石垣島の平久保崎から西を廻っており、川平は公開の重要なポイントでもあり、先島諸島火番盛に川平火番盛も含まれている。また、近世には上納物の積み出し港でもあった。

「沖縄県の歴史散歩」より

入江を島々が塞ぐ川平湾の地形は、昔から天然の良港であり、琉球王府による苛酷な年貢はこの港から運び出されたのです。

川平湾については、こちらの記事もどうぞ。

<沖縄>閑散期の石垣島!雨の川平湾でまったりと癒しの宿「Lulaliya(るらりや)」

旅したい.com

石垣島の未来は? 「南国の楽園」に建設される自衛隊ミサイル基地

レンタカーを使って石垣島をぐるりと回った今回の旅で、この島で静かな論争が起きていることを知りました。

「自衛隊配備推進」。

川平湾から石垣島空港へ向かう途中見かけた日の丸をベースにしたノボリです。

一方で・・・

「ミサイル基地いらない!」と書かれたノボリも。

場所は石垣島中央部にある平得大俣(ひらえおおまた)エリアで、その周辺にだけこうしたノボリが立っていました。

このあたりにはあまり民家はなく、パイナップルなどの畑が広がるのどかな地区です。

ネットで調べてみると、自衛隊はこの山の中腹にミサイル基地を建設する計画があることを知りました。

中国の海洋進出を踏まえた島嶼防衛の一環です。

人通りのない通りの脇に工事現場につながる入り口を見つけました。

警備の人に話を聞くと、ここが自衛隊基地の建設現場だと言います。

入り口ゲートの脇には、反対派の監視ポストがあり、「陸自配備NO!ミサイル基地反対!」という横断幕がひっそりと置かれていました。

当然のことながら工事現場の中には入れませんが、少し離れた畑の中からは高台で動く重機の姿が確認できました。

工事は2019年の3月に始まり、完成すれば陸上自衛隊のミサイル部隊など500〜600人が駐留するそうです。

このエリアにはカンムリワシが生息しているそうで、それが反対派のシンボルとなっています。

「武器で平和はつくれません!」。

反対派は住民投票などを求める運動を進めていて、本土の国民があまり知らないところで石垣島の島民を二分する激しい議論が行われていることを知りました。

確かに、こんなのどかな場所にミサイル基地は不似合いだと思いました。

美しいビーチリゾートのイメージが先行する石垣島ですが、知れば知るほど大国の思惑に翻弄された悲しい歴史を刻んできた島だということがわかります。

自衛隊の配備がその新たな一ページにならないことを願いたいと思います。

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