<沖縄>密貿易と人頭税!最果ての島【与那国】の過酷で密やかな歴史に触れる

🇯🇵沖縄/与那国島 2020年1月18日~19日

石垣島から飛行機に乗り換えて30分。

日本最西端の島・与那国島は2000人の小さな島です。

石垣島からは117kmなのに、お隣の台湾は111km。那覇よりも台北の方がずっと近いという地理的条件から、昔から与那国の人たちは台湾と行き来しながら生きてきました。

初めて訪れた与那国島で、日本人が知らない最果ての島の過酷な歴史に触れてきました。

与那国島歴史散歩① 日本最西端・久部良に残る「密貿易」の歴史

日本で一番西に位置する与那国島の西崎(いりざき)。

「日本国 最西端之地 与那国島」と書かれた石碑の裏側には、主要都市までの距離が記されています。

石垣島まで117キロ、那覇までは509キロ、東京は遠く2112キロ。

それに対して、一番近い台湾までは石垣島より近い111キロ、香港、マニラ、ソウル、北京も東京よりも近いのだという事実に驚かされます。

台湾との距離の近さを示すように、西崎の展望台には、こんな絵が描かれていました。

海の向こうに見えるのは、台湾です。

天気のいい日にはこの絵のように、視界を覆うほどの大きさで台湾の山々が見えるのだといいます。

しかし、台湾が見えるのは年に数回ほど。

この日も曇っていて台湾の島影はまったく見えませんでした。

与那国島には人が住む集落が3つしかありませんが、その中で最も西に位置する久部良(くぶら)には、戦後の短い期間、繁栄を謳歌した時代がありました。

その繁栄をもたらしたのが「密貿易」。

敗戦後アメリカの占領下に入った沖縄で極度の物資不足が続く中で、台湾との密貿易の拠点となったのがこの久部良集落でした。

私が久部良が繁栄した密貿易について知ったのは、池上永一氏の小説「統ばる島」がきっかけでした。

島の西端に久部良という村がある。断崖絶壁に覆われた島のなかで船を着岸させられる場所がこの村だ。寂れた港に微かな熱が残っている。かつて賑わいを極め、熱狂を体験した記憶がゆるやかに風化している。繁栄の絶頂があったからこそ、寂れていく過程に退廃が生まれる。久部良は祭りのあとの静けさのまま、時の坂道を下っている。

池上永一著「統ばる島」より

戦前には台湾は日本領。与那国の人たちは買い物は船で台湾に行くのが当たり前でした。

敗戦によって、与那国と台湾の間に国境が引かれ自由な行き来ができなくなる一方、アメリカの占領下に置かれた沖縄では生活物資が極度に不足します。

沖縄は激戦に見舞われ、生活基盤のほぼ全てを失ってしまった。田畑は全て焼かれ、食料自給さえ困難な状況に見舞われていた。米軍の物資配給だけではとても生きていけず、食うに困った民は、八重山諸島の地理的特性に目をつけた。即ち国境の島、与那国島である。

池上永一著「統ばる島」より

その困窮生活から脱するため危険を冒して夜間に台湾へ船で渡り密貿易を行う者が現れます。台湾から食料や医薬品を購入して沖縄本島でさばき、米軍から横流しされた物資や使用済みの薬莢を台湾に売る密貿易ルートが次第に出来上がります。

その拠点となったのが台湾に一番近いこの久部良集落でした。

「景気時代」とも「密貿易時代」とも呼ばれるこの戦後の数年間、久部良には少なくとも1万2000人が暮らし、飲み屋や料亭、映画館や芝居小屋もあったといいます。

今でも、日本で最後の夕日を眺められる港として、カジキ漁やダイビング、海底遺跡に向かう観光船の基地としてある久部良を訪れる観光客もいますが、ここに暮らす住民はわずか数百人です。

与那国島歴史散歩② 「人頭税」過酷な歴史を伝える【久部良バリ】

久部良集落の裏の丘に上がると、墓地があります。

沖縄独特の亀甲墓が並びます。

その寂しげな墓地をさらに北へ進むと・・・

ひときわ荒涼とした断崖絶壁の台地が広がっていました。

砂岩と琉球石灰岩からなる独特の海岸は「久部良フリシ」と呼ばれ、常に波が打ち付ける荒々しい海岸線の風景を作っています。

この海岸線にぱっくりと口を開けた深い亀裂。

全長15m、幅3.5mのこの断層は、「久部良バリ」と呼ばれ、与那国の悲しい歴史を物語る場所として島民の記憶に刻まれてきました。

現場に建てられた石碑にはこう記されている。

『 琉球王府は、これまでの貢納制度を改め、15歳以上のすべての男女に賦課するすることにした。世にいう過酷な人頭税制度であるが、その影響は与那国島まで及び、村ではここクラブバリで残酷なことが行われたという。人口制限のため、村々の妊婦をあつめて岩の割れ目を飛ばせたのである。

 妊婦たちは必死の思いで飛んだが、多くは転落死したり、流産したと語り伝えられている。』

重税から少しでも逃れるための「人減らし」・・・酷い話です。

与那国に琉球の支配が及んだのは遅く、世紀ごろのことでした。

それまでは台湾と同じく主人を持たない国際法上の「無主の島」だったのです。島民たちは自給自足の生活をしていたと考えられています。

その最初の主人である琉球が与那国を含む先島諸島に「人頭税」を導入したのは1637年のこと。

そして琉球王府による人頭税導入の背景には、1609年の薩摩藩による「琉球侵攻」がありました。これにより琉球はそれまでの明(のちに清)への貢物に加え、薩摩にも貢納をせざるを得なくなったのです。

薩摩に貢ぐために、八重山から搾れるだけ搾り取る。その結果、与那国の島民は全員、奴隷以下の過酷な環境に置かれたのでした。

与那国の人々を苦しめた人頭税が廃止されたのは、明治時代末期の1903年。

与那国島の中心地、祖納(そない)集落には、「人頭税廃止百年記念の碑」が建てられていました。

日本人の軍事侵略で琉球が背負った重い負担は、最終的に最果ての島に暮らす島民の命を奪っていった。そんな悲しい歴史があったことを、私たち日本人は知らねばなりません。

与那国島歴史散歩③ 女首長サンアイ・イソバの拠点【ティンダバナ】

琉球に支配される前の与那国島は、女性首長が支配する伝統社会だったそうです。

女性首長の名は、サンアイ・イソバ。

巨体と怪力の女傑として知られ、4人の兄弟を島内に配置して与那国島を統治していたとされています。

彼女がねぐらとしていたとされるのが、祖納集落の裏にそびえる絶壁「ティンダバナ」です。

サンアイ・イソバとティンダバナの話は、司馬遼太郎さんの本にも登場します。

先島の古代は、沖縄本島よりもずっとながくつづいた。

この与那国島にいたっては、十五世紀いっぱいまでは、他からの影響をほとんど受けることもなく、いわば地上の極楽のような社会だったかと思える。法律もなく、税金もなかった。

司馬遼太郎著「街道をゆく 沖縄・先島への道」より

しかし、16世紀になると鉄器が与那国にも伝わり人口も増え、琉球王府の影響力が忍び寄ります。

そんな時代に与那国に女性の首長が現れたのです。

「サンアイ・イソバ」というのが、この首長の名だった。首長サンアイ・イソバは、鉄器時代の到来を象徴する存在といっていいであろう。

ただし彼女は、収奪者としての首長ではなく、東アジアの古代の村落の指導者にしばしば存在したように、巫女であった。ひとびとは彼女を通じて神の意志を聴いた。

彼女の名が後世まで残ったのは、上陸してきた琉球王府の軍隊に対し、島人を指揮し、これを撃退したからである。

司馬遼太郎著「街道をゆく 沖縄・先島への道」より

祖納集落から車で坂道を上ると、サンアイ・イソバの拠点「ティンダバナ」の入り口につきました。

崖に通じる通路にはいかにも南国風の大木が覆いかぶさっています。

通路を進むと、左手の斜面に「女傑サンアイイソバ之碑」と書かれた石碑が・・・。

さらに進むと、岩が窪んだ天然のひさしのような場所に出ました。

女首長サンアイ・イソバは、島の伝説ではこの岩場でいつも横になって肘枕をし、海のかなたや、祖納の村のあたりを眺めていたというのである。彼女はとほうもなく大女だったという。

司馬遼太郎著「街道をゆく 沖縄・先島への道」より

確かに、この場所に立つと、目の前に祖納集落とその向こうに広がる海が一望できます。

ティンダバナには水場もあって、かつて実際に人間が暮らしたであろうことが想像できます。

司馬さんは女首長の活躍を次のように書き進めます。

王府郡の一部隊は、この与那国島にむかった。その将は宮古人仲屋金盛である。

その侵入軍は、現在灯台のある東部海岸の東崎に上陸した。未明に上陸した。

女首長サンアイ・イソバは、本土の遠い時代の卑弥呼と同様、よほど呪術力をもっていたらしい。敵の不意の上陸を、夢で知った。飛び起きて駆けてゆくと、侵入軍はすでに二つの部落を焼きはらい、女首長の兄弟であるそれぞれの村長を殺し、さらに西に進んでいるところだった。

彼女は生き残った村人をあつめ、結局は侵入軍を撃退した。武力によるものか、呪術力によるものか、よくわからない。

司馬遼太郎著「街道をゆく 沖縄・先島への道」より

でもサンアイ・イソバの活躍も長くは続かず、1510年には、与那国島は琉球王府の支配下に入りました。

ティンダバナは今では村人たちの宴会場として使われているそうです。

でも集落を見下ろすこの天然の要塞に立つと、ほんの一時期でも与那国に自主をもたらした女首長に対する誇りと尊敬が感じられる気がしました。

与那国島の観光については、こちらの記事もどうぞ。

<沖縄>日本最西端のワンダーランド!与那国島の海底遺跡と自由すぎる馬たち

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与那国島歴史散歩④ 【DiDi与那国交流館】で知る与那国と台湾の歴史

祖納地区に2016年に完成した与那国町初の観光文化施設「DiDi 与那国交流館」を覗いてみました。

「DiDi」は、与那国の言葉で「行こう」という意味だそうです。

ここでは、女性が主要な役割を果たした伝統文化を写真で知ることができます。

数十年前までは、こうした習俗が生きていたのでしょう。

展示内容は簡単なもので、一般の観光客にはあまり面白い施設ではなさそうですが、私は台湾、琉球、日本の関係を表した年表に興味を惹かれました。

「台湾・沖縄・日本関連略年表」というタイトルがついたこの年表。

一番上に「台湾」が書かれている点が注目です。与那国の人たちの心情として、台湾は日本よりも近い存在だったということなのでしょう。

台湾の歴史として最初に登場するのは17世紀。

列強のオランダが台湾に砦を築いたこと、日本の平戸で生まれた鄭成功がオランダを打ち破ったこと。これより以前の台湾の歴史は記載されていません。

日本との関係が年表に登場するのは明治になってから。

「牡丹社事件」とは、明治4年(1871年)、遭難して台湾に流れ着いた宮古島の住民54人が台湾の原住民に殺害された事件です。

明治政府は清に抗議しましたが、清は台湾の原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であると責任を回避したため、明治7年、明治政府は台湾に出兵しました。

これが、明治政府による初めての海外派兵です。

明治12年には、明治政府は沖縄に軍隊を派遣し、いわゆる「琉球処分」を行って、沖縄を完全に日本の領土に組み入れました。

これに対し、清は台湾を省に格上げするなど支配を強化しますが、日清戦争の結果、台湾は日本に割譲されます。

年表には、日の丸を手にするタイヤル族の少女たちの写真が・・・。

台湾はその時代まで、少数の部族がそれぞれの縄張りを守って共存する、近代から隔絶されたような島でした。

台湾は、開国した日本が手に入れた初めての海外領土でもありました。

抵抗する原住民を山に追い込んで、日本は平地部分の開拓を進めたのです。沖縄からも1000人が台湾に移住したといいます。

年表には書かれていませんが、日本統治時代には、きっと与那国島から台湾への往来もしやすかったのだろうと思う。

日本政府は台湾に鉄道を敷き、サトウキビを植え、総督府を設けました。原住民のことは「高砂族」と呼び、学校では皇民化教育が行われましたが、日本の敗戦によって台湾は中華民国の領土となったのです。

共産党に敗れた蒋介石が台湾に逃れ、台湾を国民党の拠点として大陸反攻を目指すようになったのは、1949年のことでした。

しかし、与那国島の施設でなぜ台湾の歴史が詳しく紹介しているのでしょう。

「台湾・沖縄を往来した人々の軌跡」というパネルにこんな記述がありました。

台湾から沖縄への移住が本格的に始まったのは1935(明治11)年です。

八重山のパイン産業をはじめ、農業の分野でも新しい品種の作物の導入や、稲作における水牛や多くの農作物と技術が沖縄にもたらされ、戦後沖縄の産業に大きく貢献しました。在来米に代わり台湾から蓬莱米が導入され、製糖業では本土から企業が参入してきました。

台湾を日本が統治した時代、台湾と沖縄の間で人的交流が盛んに行われていたことがわかります。

私たちが沖縄らしいと思っている物や文化の多くには台湾の影響があるようです。

与那国の未来は? 日本最西端の島に自衛隊がやって来た!

このように悲しい歴史しか持たない与那国島。

しかし、最果ての島は今、島嶼防衛の要としてのにわかに重要性を増しています。

与那国島は日本の一番西にある国境の島で、中国との間で領有権問題を抱える尖閣諸島も与那国島の北150kmに位置しています。

中国との緊張が高まる中で、与那国島では自衛隊誘致を巡って住民を二分する論争が起きました。

町長選挙と住民投票を経て、自衛隊駐屯地がこの島にできたのは2016年のことです。

島の中央にはレーダーサイトが建設され・・・

島の西部には真新しい駐屯地ができました。

自衛隊員とその家族およそ250人が移り住み、町の税収も増えました。ゴミ焼却場やエビの養殖場にも国の予算が交付され、小さな町は財政危機から脱したのです。

私が泊まった宿には、自衛隊員と記念撮影した写真が飾られていました。

国境の島は自衛隊を呼び込むことによって、新たな道を歩み始めたのです。

宮古島、沖縄、日本。

強い者たちに常に虐げられて来た与那国島の未来は、日本、中国、台湾の関係がどうなるのかにかかっているように見えます。

与那国島の悲しい歴史を少し知って、平和で人々が自由に交流できる未来を願わずにはいられません。

与那国島の観光については、こちらの記事もどうぞ。

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