<京都>海軍と岸壁の母! 「肉じゃが発祥の地」舞鶴に見る日本海軍の歴史

🇯🇵京都/舞鶴 2019年11月3日

若狭湾の西の端、京都府舞鶴市は人口8万人弱。田辺藩の城下町だった西舞鶴と軍港として発展した東舞鶴という2つの顔を持つ街です。

1901年、明治政府は湾口が狭く、中が広い舞鶴湾が軍港に適しているとして、ここに舞鶴鎮守府を置きました。初代司令長官は海軍中将だった東郷平八郎です。

その東郷平八郎ゆかりの食べ物が「肉じゃが」。舞鶴は「肉じゃが発祥の地」を宣言しています。

海軍とともに歩んできた舞鶴の街で、シベリア抑留の歴史に触れました。

引揚記念館と「岸壁の母」

港で撮影した地図です。舞鶴湾の形を初めて意識しました。

湾口は約700mととても狭く、中が広がった天然の良港。古来から北前船などの寄港地として賑わい、明治になると南下するロシア帝国に対抗するため日本海軍がここを軍港に定めました。

その理由は、地形を見れば一目瞭然です。

東舞鶴は軍港、西舞鶴は朝鮮や満州への定期船が発着する商業港として発展しました。

今でも海上自衛隊の総監部が置かれ、東舞鶴から西舞鶴へ向かう途上、接岸した護衛艦の姿を見ることができます。

1泊2日で若狭湾を巡る今回の旅。

東端の福井県敦賀市でレンタカーを借り、西端となる京都府舞鶴市で返すことにしました。

舞鶴に着いた時には返却時間が迫っていましたが、舞鶴まで来たなら立ち寄りたいと思う場所がありました。

「舞鶴引揚記念館」。

「岸壁の母」で知られる舞鶴港は、シベリア抑留の記憶と深く結びついています。

記念館は、引揚船が到着した埠頭や舞鶴引揚援護局の跡地を見下ろす丘の上に立っていました。

敗戦時、外地に取り残された日本人の数は軍人民間人合わせて660万人以上。彼らを本土に帰還させることは日本政府にとっての最重要事項でした。

厚生省は全国18カ所(浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹、宇品、田辺、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎、門司、戸畑)に引揚援護局あるいはその出張所を設置。

翌年までには9割の引揚が完了。役目を終えた援護局は次々に閉鎖されていきました。

しかし、舞鶴だけは事情が違いました。

ソ連支配地域からの引揚が進まなかったからです。

ソ連は降伏した日本兵らおよそ60万人をシベリアでの強制労働に従事させます。

いわゆる「シベリア抑留」の始まりでした。

私にとってシベリア抑留は、学生時代に映画館のオールナイトで見た映画「人間の條件」によって強烈に脳裏に刷り込まれました。

この作品は、作家・五味川純平氏の原作をもとに、全6部作9時間31分の映画に仕上げた松竹渾身の超大作。戦後の日本映画界が作り上げた反戦映画の金字塔です。

加害と被害が渾然一体とした戦争の不条理を、自らの実体験を踏まえて描いた五味川氏も満州からの引揚者でした。1956年から58年にかけて発表された「人間の條件」は、当時1300万部の大ベストセラーになりました。当時の日本人が戦争にどのような気持ちを持っていたのか、この小説と映画が私に教えてくれたのです。

記念館には、シベリアに抑留された人々が身につけていた衣服や・・・

抑留者が書き残した「白樺日誌」といった資料が展示されています。

白樺日誌は、シベリア抑留体験者の故・瀬野修氏が収容所で、日々の思いをシラカバの樹皮を紙代わりに空き缶を加工したペン、すすを水に溶かしたインクで記述。日本に持ち帰り、昭和63年に同館に寄贈したものです。

個人的に新鮮だったのは、「シベリア抑留」という呼び名とは違い、日本人抑留者が極東エリアだけでなく、モスクワ近郊まで旧ソ連全土に送られていたことです。

私の不勉強でしたが、こうした遠方に送られた人たちほど帰国できず異国で命を落としていることを初めて知りました。

こうした引揚の記録は2015年、『舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』として、ユネスコの世界記憶遺産に登録されました。

記念館のホームページには、その目的を次のように書いてあります。

舞鶴引揚記念館は昭和63年(1988)に開館して以来、シベリア抑留と海外(外地)からの引き揚げの労苦の史実の継承と平和の尊さの発信をおこなってきました。

しかし、戦争を知らない世代が大半を占め、抑留や引き揚げの記憶が風化する中で、およそ66万人もの引揚者を迎えたまちの使命として、未来を担う次世代へ向けて広く発信する必要性を強く感じています。

平和の尊さを次世代へ継承し、世界へ発信するため平成24年(2012)7月からユネスコ世界記憶遺産への登録へむけて取り組みをスタートし平成27年10月10日に収蔵資料のうち570点が登録されました。抑留や引き揚げの労苦だけではなく、戦後の混乱の中で、多くの労苦の末に海外(外地)から引き揚げた人々を温かく迎えた舞鶴の人々の豊かな精神性についても発信してまいります。

出典:舞鶴引揚記念館ホームページ

記念館から坂を下った所に、引揚船が到着した「平引揚桟橋」が復元されています。

1945年10月7日、最初の引揚船「雲仙丸」が舞鶴港に入りました。多くの市民が引揚者を歓迎したといいます。

1950年以降は舞鶴が国内に残る唯一の引揚港となりました。

埠頭にはまだ帰国できない肉親を待つ母や妻が集まるようになり、彼女たちはいつしか「岸壁の母」と呼ばれるようになったのです。

映画や流行歌にもなった「岸壁の母」のモデルは、端野いせという女性です。

昭和5年に夫と娘を相次いで亡くしたいせさんは、新二という養子を迎えますが、新二さんは軍人を志して満州に渡り1944年ソ連軍の攻撃を受けて行方不明となります。

戦後、ソ連ナホトカ港からの引揚船が舞鶴に入港するたびにいせさんは舞鶴の岸壁に立ちました。息子の戦死告知書が発行された後も帰国を待ち続けたいせさんをマスコミが取り上げ、多くの日本人の胸を打ったのでした。

ソ連からの最後の引揚船「白山丸」が舞鶴の港に着いたのは1958年。

私の生まれた年です。

国策で大陸に渡った人たちの想像を絶する苦難。それは決してソ連だけの責任ではありません。戦争は常に末端の人たちを過酷な運命に追い込むのです。

今の若い日本人たちがどれほど日本の戦争体験を知っているのかは甚だ疑問ですが、同じ過ちを繰り返さないために、冷静に歴史に向き合う姿勢が必要だと感じました。

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